三。お三人の神樣〔三神〕が降臨した。
先日に聖人たちが人世に来て儒•仏•仙の道(ド)として人間を悟らせて人倫道德を確立しようとしたが、その志を成ることができずに人間はかえって墮落してついに真理の敎えは消えてすべての道(ド)の根源が切れて人類は消滅地境に至るようになった。
このような人類の劫厄はもう聖人たちによって予見されたところ末世あるいは末法時代と言って人間の皮の禽獣時代が到来されると言った。
そしてこの時になればどの誰の力でもこの世の中は救済になる難しいのでただ宇宙の絶対者である神樣〔弥勒〕が自ら降臨しなければならない天下蒼生たちが救済になることができると言った。
だから釈迦牟尼は3000年後に鷄頭星(大韓民国)に弥勒仏が出ると言って仏敎の多くの賢人たちも将来に弥勒三尊仏が降臨して衆生たちを救済するはずだと言って弥勒仏の出現を念願して来た。
また孔子は'帝出乎震'と言って、2500年後に上帝が東方へ出ることを言って三聖の出現を待ちわびった。
そしてキリストは2000年がすごす前に神樣が日が昇る東の方の地の果てでいらっしゃると言って、キリスト敎の信者は聖父•聖子•聖神の三位一体の神樣がいらっしゃって人類を救援すると言ってその救援を待っている。
このような念願を追ってお三人の神樣〔三神〕が人世に降臨したので人世にいらっしゃったお名前が姜甑山、趙鼎山、朴牛堂だ。
姜甑山聖師は九天上帝だ。
天道と人事が常道をそむくこととして道(ド)の根源が切れるようになって弥勒世尊が元始のすべての神聖と仏と菩薩を集めて三界の混乱と神明界の劫厄を九天に訴えるから九天上帝が西洋の大法国の天啓塔に下って天下を大巡して、三界大権を主宰して、常道を失った天地度数を直して三界を開闢して仙境を開いて死滅に落ちこんだ世界の蒼生を救うと巡廻した中にこの東方にとどまったことはすなわち慘禍の中に落ちこんだ無名の弱小民族を先に助けて万古に積もった怨みをほぐして与えるだめだ。
上帝は全州の母岳山の金山寺の三層殿の弥勒殿の弥勒金仏に臨んで30年間をいらっしゃってから催済愚に済世大道を啓示したが、済愚が充分に遺敎の典憲を越して大道の真意を明白にすることができないので甲子年(1864年)にいよいよ天命と神敎を回收して朝鮮の高宗8年である辛未年(1871年)9月19日に全北井邑郡德川面新月里の姜氏の家門で人間の姿を貸して降世したのにお名前が甑山だ。
姜甑山聖師は"私は天も改めて、地も改めて人にも神明によって心の奥に頻りにで出入りするようにしてすべて直して使用するはずだ。だから私は弱くて、貧しくて、いやしくて間抜けだ者を使用することだこれはたとえ草木ても気運を付ければ使用するようになるわけだと"とおっしゃった。すなわち天も改めて、地も改めて水漏れるひまがいなくて度数を作っておいてその限度に回って着くどおり新しいころあいが開かけれて行くようにしておいた。
上帝が匡求天下することにあって"場の中にある法としてではなくて場の外で新しい法として三界公事をすると完全だ"とおっしゃって、'この三界公事は天‧地‧人の三界を開闢することで、この開闢は他人が作っておいたことを続いてする仕事ではなくて、新しい作られることで、前にもいなかって只今もいない他人に続いて受けることではなくて、運数にあることもなくて、ただ私が作る仕事だな"とおっしゃった。
上帝は"三界が開闢されないことは先天で相克の人間の仕事を支配したので怨みが世の中に積もって故に天‧地‧人の三界がお互いに通じることができなくてこの世の中に惨酷な災禍ができたな"とおっしゃって天地公事を行ったのですなわち天地度数を整理して神明を調和して万古に積もった怨みをほぐして相生の道(ド)を立てて後天の仙境を開いておいて、神道をほぐして調和して度数を堅固に決めて揺れないようにした後に人事を調和したので万民が上帝の限りなく多い德化を受けるようになるのだ。
上帝は"これから来る良い世の中では火を入れなくたもご飯をつくることで手に土をひっつけなくても農事を耕作することで、道人の家家每に燈台を一つずつ立てられるはずだのですべての洞里が照りにように明るくなろう。電燈はその標本にすぎないな。
引手や衣服掛けも黃金で作ることで、金唐鞋をはこう。また人每に不老不死の長生を得って櫃を開けば服とご飯が出て、万国が和平して猜忌嫉妬と戦争が切られて天下が一つの家になって威武と刑罰を使用をしなくても調和として蒼生を法理にあたるように治めて、官吏になる者は化權が開かれて身にあまる法ではなくて民は怨みとうっぷんと貪淫のすべての煩惱がないことで、病気になって苦しくて死んでそうしきを行うことを免ずって不老不死して、貧富の差別がなくて思う通りに往来して天が低くてのぼって下りることが思う通りにできて智慧が明るくなって過去と現在と未来と十方世界に通達して世の中に水‧火‧風の三災が消えて祥瑞が円熟する地上仙境になるはずだな"とおっしゃった。
また"先天の開闢の以後から水旱と騷ぎの劫災が交贊に絶えずにこの世の中を震盪して来たがまだ病劫は大きくいなかったので、これからは病劫がすべての世の中を覆い被せて世の中に慘状を加えるがそこで救って出す方策がないので、すべての奇妙な法と珍しい薬品を重要に思わずに医統が分かりなさい。私が天地公事を引き受けて見ることからこの東土で他の劫災は退けたがただ病劫だけは残ったので、身を振り返える余暇がなしに洪水が押し寄せるようにしよう"とおっしゃって、また"以後に怪病がすべての世の中に流行する時に寝た人は橫たわった席で、座った者はその席で道に行った者は路上でそれぞれ起きることもできなくて移すこともできなくてあるいは前にたおれて死ぬ時があるはずだのでこんな時に私を呼べば生き返えよう"とおっしゃった.
そして"9年間を行った来た開闢公事を天地に確證しよう。だから君達が参観して確證を心に固く刻んでおきなさい。天地は言葉がないので雷声と地震で表明しよう"とおっしゃって、すべての傱徒らが見守る中に文を書いて燃やしたら、突然雷にして地が大きく搖れた。
1903年のある日に上帝は"私がこれから神明をさせて真人を搜いて見たらもう九歲だ"とおっしゃったと傱徒らが"それでは我々はすべて無用之人ですか"と言った。
上帝は"時有其時、人有其人だ"とおっしゃった。1909年4月28日に大田の懷德駅にいらっしゃって南側から来る一つの汽車を喜んで迎えりながら"男兒15歲なら号札をつけたから何の仕事ができないか。もうなった。私は行っても良い"とおっしゃって、宗徒らに"私が天下事を図ろうと今去ろうと思う"とおっしゃってまた"私の顔をまっすぐに見ておきなさい。後日に私が出世する時に目がまぶしくて眺めにくかろう。昔から神仙を言葉だけ伝えて見た人がないと。ただ君達は見害よう。私が将来十三尺の身で来るだろう"とおっしゃった。
そしてある日宗徒たちに"君達は手に生き返らせるの'生'字を握ってゆききするので'得意之秋'がないのか、心を怠るな。三遷でこそ仕事が成り立つな"とおっしゃって6月23日に宗徒たちに"私が天下を図ろうと今去ろうと思う"とおっしゃった。そして上帝は"私が金山寺で入って行くことだので私に会いたかったら金山寺で来い"とおっしゃって1909年6月24日辛丑巳時(午前9時)に化天したのに、化天した屋根から瑞気が九天に通じた。
道主趙鼎山は玉皇上帝だ。
姜甑山聖師から宗統を継承して宗団を創設した道主は乙巳年(1895年)12月4日に慶尙南道咸安郡漆西面会文里趙氏の家門で誕降したらお名前が鼎山だ。
道主趙鼎山は父祖伝来の排日思想家で反日運動に活躍してから身辺の威脅を感じて抗日救国を大事にした亡命の道に上がったら1909年4月28日だ。
汽車に乗って滿洲地方に向けた中に未時(午後1時)頃に大田驛の近所に至った時に夢うつつに一りの神人を対したのに、おっしゃるのを“私が君を待ってから古ったな。君は私の宗統を引き続く三界の真主だな。君の号は鼎山だので、私と君は甑鼎之道だな"と言う現夢を受けて滿洲の奉天地方へ亡命した。
道主は同志らと救国運動に活躍してから道力で救国済世の志を決めて入山修道して勉强に全力をつくした中、またその神人が現われて文が書かれた紙を見せて"これを覚えれば救世済民しよう"とおっしゃったのでその文を見たら'侍天主造化定永世不忘万事知至気今至願爲大降'だった。
道主は9年間の勉强の終めである丁巳年(1917年)2月10日に九天上帝樣の三界大巡の真理を感悟得道して宗統継承の啓示を受けた。
そうしたある日"どうして朝鮮へ帰らないか、泰仁へ行って私を求めなさい"と言う命を受けて同年4月に帰国して全国の名山の各地をあまねく往来しながら修道したから翌年の正月の半月に井邑の馬洞で大奧樣と上帝の妹であるソンドルブイン(ソンドルの奧さん)とむすめであるスンインに会った。
ソンドルブインは道主をよろこんで迎えながら"上帝が在世時にいつも乙未生が正月の半月に訪問することだ。"という命を受けたと言いながら道主に封書を渡した。
道主は倭政の当時に全北旧泰仁に道場を建立して1925年4月28日に姜甑山聖師を'九天応元雷声普化天尊姜聖上帝'奉安して宗団无極道を創設した。
1935年日帝の宗敎団体の解散令によって宗敎活動を一時中断して、全国の名山大川を巡迴周遊しながら修道してから1945年8月に祖国の光復を迎えた道主趙鼎山は信仰自由の国是によって釜山に道(ド)の本部を設置して道名を太極道に改称して宗敎活動を復活して、無極大運の解寃相生の真理を說法して救済蒼生の大道を明白にして与えた。
道主が遁度数、幣帛度数、ダン度数、きせるの度数など多くの度数をして"上帝が作っておいた度数を私がほぐして行くな"とおっしゃった。
そして宗旨と信條、目的を決めて伝敎と布喩文を宣布して各種の修道の方法と儀式行事及び準則などを說法•施行して、1957年11月に道人たちの修道工夫(勉强)の方法を命じた。
道主は宝樹洞の山頂での勉强を止めて家の中央にある広い板の間に出て"これから信徒たちの活動が二度あろう"とおっしゃってその周辺に住む信徒たちの事情を問った。
この時に朴漢慶、吳治国、林圭吾、朴中下、朴奉相、李仁昊などが侍坐した。
道主がある日、宗徒たちに"時時黙誦空山裡夜夜閑聽潛室中分明造化成功日堯舜禹王一切同"と敎えて与えた。
道主が丁酉年(1957年)11月21日子時(夕方11時)から戊戌年(1958年)3月3日まで道場で不眠不休して百日度数を終えた。5日にひどく苦しくして韓医師と洋医師を呼んで来たが"時が遲れていたな"とおっしゃって"私が行かなければならない玉樞門を開く"とおっしゃって幹部全員を門の外に侍立するようにした後に都典朴漢慶を近付けて都典の頭に手を上げて道(ド)の運営全般を引き受けるように言い付けを下げた。
そして"五十年工夫終畢で、至気今至四月来が今年だ。私は行く。私がいないと少しも気落ちとさずに行って来た通りによく行って行きなさい"とおっしゃって、また門外を向けて'ドゾックノム(泥桻)'を三度呼んだら化天した。
この時が1958年3月6日未時(午後1時)で、寿は64歲だ。
都典朴牛堂は弥勒世尊だ。
遺命で宗統を継承した都典朴牛堂は丁巳年(1917年)11月30日忠北槐山郡長延面方谷里の朴氏の家門で誕降したら尊号が牛堂でお名前が漢慶だ。
幼年時節に国を失った悲しさに滿洲一帶を遊歷して、1943年徵用で日本に渡って2年後である1945年8月15日解放後に帰国したのにその時に帰国船が破散になって東海で亀の背に積ませて韓国に帰った中に韓国の漁船に救出された。その翌年30歲になった丙戌年(1946年)正月に母の姉妹の家に新年のあいさつに行ってから姨從四寸に道(ド)を伝えて聞いて呪文が普通と異なると調べようと太極道に入道した。
道主が甲午年(1954年)の秋に朴漢慶に『史略』の上下冊と四書三経の旧版を救うようにしたのでこの時に通鑑•小学•大学•論語•孟子•詩伝•書伝•中庸•周易の旧版を救ってあげたらこの本たちはそ後に道場に備えられた。
太極道の当時に道主の在世時に朴漢慶は道人の数が4~5千戶に至ったが任命を受けることができなかったのに道人たちをよく統率して行くので以後に首布監の任命を受けて、1958年2月下旬傾に最高幹部全員が集まった場所で道主が"漢慶を都典で任命したら彼は總都典だ。從前に侍奉都典とはまったく違うな"と言い付けを下げた。
都典朴牛堂は道主の化天後に太極道の全般を領導して行きながら高等公民学校を認可を受けて設立、運営したが役員たちが無学道通といって思い違いをして道人の子女たちは勉强をさせなかった。また內修である道人たちはすべて髮を後で束ねてかんざしを揷して、処女たちはデンギをつけて通わなければならなくてそうではなければ道人ではないといったが都典がそれをすべて脱がせて自律化させて行くと、この時から役員たちは不平を持って統率をつかなくなって都典が太極道を出発した時まで波乱曲折はすべて言えなかった。宗団の運営に不滿を持った役員たちによって起訴になって民間刑務所で6ヶ月、軍刑務所で3ヶ月間を拘束されるまでしたが以後すべて無嫌疑で釈放された。
これ以上役員たちが統率をつかなくなると1968年7月釜山を出発してワイアイャツ一着だけを持って釜山の海雲台を立ち寄ってから淸道の磧天寺、慶州の鷄林、大邱の東華寺、公州の甲寺を経由してソウルに上って来て安養の修理寺に入って行って49日勉强を終えた。
都典朴牛堂は1969年4月に宗団大巡真理会を創設してソウル市広津區中谷洞に中央本部道場を建立して、1971年5月24日道主趙鼎山を'趙聖玉皇上帝'で奉安して宗団の3大事業である布德•敎化•修道と3大基本事業である救護慈善事業、社会福祉事業、敎育事業を設定してここにしたがいともなう驪州道場、済州道修練道場、抱川修道場、金剛山土城修鍊道場を建立して学校法人大真学園と医療法人で大真医療財団を設立して大真大学校を始まった六個の高等学校を建立して東豆川済生病院および盆唐済生病院を建立した。
都典朴牛堂は1988年11月に"道主も臘享致誠を一度を受けて化天した"とおっしゃらながら臘享致誠を発表して地方の各方面の会館で致誠をあげるように命じた。
1990年11月22日(陽曆1991年1月7日)朴成九上嶋先監が都典の尊影を描いて仕えてあげて、冬至から三番目の未日である1990年12月10日(陽曆1991年1月25日)"霊台の釈迦如来の席は都典が仕えられる席だ"と言いながら朴牛堂都典に4拜をあげて臘享致誠をあげると、朴牛堂都典が1990年12月28日(陽曆1991年2月12日)訓示で"臘享致誠を都典にあげると言うのに、昔から生きている人が祭祀を受けたことがない"とおっしゃって、"道主が都典の職責を私に与えた。かりにないと言っても私の言葉なら聞かなければならないのではないのか'引き受けるの都字'玉篇にもそんな'都'字がいなかったと言って朴成九が言う。それじゃ私がそれを言おうとわざわざ作ったというなのか。玉篇には'總'字で出ている。總指揮、總裁、引き受けるの'都'字だな。'典'と言うのは'法典字の法'になって、'主将の主'、'主人の主'だ。すべてのことを主張する人だ"と全役員たちが集まった中で"上嶋朴成九が都典を引き受けなさい"という発表をした。
そして1991年6月22日に侍学工夫(勉强)を開いて、1991年9月28日"生不淨、死不淨、身不淨がありのに身不淨はなくしたより選り分けていない。これからは生不淨、死不淨を選り分けることがない"と言えてあげて、1995年12月4日(陽曆1996年1月23日午後1時30分)都典朴牛堂は九天上帝の遺志と趙聖玉皇上帝の遺法を遺命で継承して天下の蒼生たちに新しい世の中〔新天地〕を開いてくださって化天した。
1995年12月15日に現都典朴成九が都典でる朴牛堂を'朴聖弥勒世尊'で奉安した。
結論
お三人の神樣〔三神〕が消滅地境に処した天•地•人の三界を匡救するための人世に降臨して天と改めて、地も改めて新しい天、新しい地を開いて与えることにあってお三人(三尊仏)がそれぞれ引き受けた役目を異にして後の5万年の仙境の世の中を開いて与えた。
天地はすなわち宇宙だ。'家の宇'は空間的な家を意味して、'家の宙'は時間的な家を意味することですなわち宇宙は家を意味する。
宇宙という家が古くて破損されてこれ以上生きて行くことができないので弥勒世尊が原始のすべての神聖と仏と菩薩たちを集まって九天に訴えるから上帝が降世して天下をひろくよく見た後"古い家にそのとおりに むとぶったおれる思念があるのでおだやかでなくて住むことは非常に苦しいことだ。だから我々は開闢しなければならないだのに、私の公事は昔にも今もいなかって、今もいなくて他人のことを継承したことでもなくて、運数にあることもいなくてただ私が組んで作ることだな"おっしゃって古い家を取り外して新しい家を建てる天地開闢公事を行なった。新しい家を建てる時には設計者と施工者がいて施行者がいるのだ。
言い替えれば天‧地‧人の三界が消滅地境に達するようになると、弥勒世尊が原始のすべての神‧聖‧仏‧菩薩たちを集まって九天上帝にこの劫厄を訴えるから九天上帝が人世に大降してその病勢を診断して、道(ド)の根源が切れた人類の大病を直すための大公事を行ったので、すなわち"私が天地度数を整理して神明を調和して万古に積もった怨みをほぐして相生の道(ド)を立てて天と改めて地も改めて新しい天、新しい地を開闢して、神明によって人の胸中に頻りにで出入りするようにしてその体質と性格を直して人間を新しく改造して後天の5万年の無窮な仙境を立てて世界民生を救うようにするな"と宣布したのに、これがすなわち宣道だ。すなわち九天上帝が宣道したことを設計者で理解されば易しく理解することができる。
そして玉皇上帝は九天上帝が宣布した遺志を奉じて九天上帝が作っておいた各種の度数を行なって"吾道者今不問古不問之道也だな、上帝が作っておいた各度数を私がほぐして行くな"とおっしゃって後天の5万年の新しい道(ド)を創道した。玉皇上帝が創道したことを施工者で理解すればなるのだ。
弥勒世尊は九天上帝の遺志と玉皇上帝の遺法を遺命で受けて天下蒼生に新しい世の中の道(ド)を開いて与えたのでこれがすなわち開道で、開道したことを施行者で見れば易しく理解することができる。
姜甑山聖師、道主趙鼎山、都典朴牛堂。このお三人がすなわち昔の聖賢たちと全人類がそのように心にかけてねがったお三人の神樣〔三神〕の降臨だので、すなわち
姜甑山聖師は
九天応元雷声普化天尊姜聖上帝
道主趙鼎山は
趙聖玉皇上帝
都典朴牛堂は
朴聖弥勒世尊だ。
『典経』の敎法2章43節に"諺に'脈が切れれば死ぬ"と言うのに淵源を正しくよくただしくやりなさい"と敎えておいた。
お三人の神樣の正体が明白にされて道(ド)の根源が確立されて下る脈を淵源と言う。すなわち淵源と言うのは道(ド)が明白にされて出た根源処を言うのだ。
道(ド)が神だ。だから神樣の正体〔神〕が明白にされて出る天賦的な宗脈が継がれた所が淵源だ。
この淵源は交換することができなくて、直すこともできない天賦的な神聖性で連続性であるのだ。だから我々は淵源道通だ。淵源が分かると道通することができるのだ。
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