十二。歷史の中の聖賢たちが言った
神樣の降臨に対する予言

今は世の中が無道して天と地と人がすべて消滅地境に落ちこんでいる。だからこのような時に天と地と人を蘇生させるとこの地に新しい道(ド)が出現しなければならない。
歷史の中の多くの聖賢たちはこの時をあらかじめ予見してこの時になれば人類を救援する救世主が来るはずだと予言した。

釈迦牟尼の予言

釈迦牟尼は人類が消滅地境に落ちこむ時に人類を救援しに来る救世主は弥勒仏と言った。
『弥勒下生経』*の弥勒授記品の第1章に出る弥勒尊仏と釈迦牟尼仏の対話の內容を見ればこの世の中に釈迦牟尼仏が先に来て、後に弥勒尊仏がこの世の中に来るようになる事由がよく出ている。

*『弥勒下生経』:この経の出処は現在中国の山西の方の平陽府岳陽縣の王家場だ。忽然と一つの雷の音がした後に石が崩れて自ずから石の箱が開かれて弥勒尊経が一冊が出て万天下に伝えるようになった。

あの時に弥勒尊仏が釈迦牟尼仏といっしょに三世の以来で兄弟になって一緖に大道を磨いて、弥勒仏は兄さんになって釈迦牟尼仏は弟になって大きい道(ド)を正覚していっしょに俱足するよ。/弥勒仏は德惠が圓滿してここにおのずから相談して"誰が先に来る世の中を迎えて衆生を済度しようか"とおっしゃって、ここに釈迦仏といっしょに誓って大きく決めて錫杖を前に置いてもし錫杖の上に先に花が咲く者が先に世の中を治めて後に咲く者が後に世の中を治めるとおっしゃって錫杖を座席前に立てた後に三日を決めるよ。あの時に釈迦牟尼仏が禪定に入って行ったら一日はじっと目を明けて錫杖の上を眺めたら、私前の錫杖の上はただ五色の豪光だけがいて花は咲かないで、弥勒仏前の龍杖の上には先に花が咲いて、その当時に弥勒仏にすなわち太平な世界を治める権勢が当たってまったく決まることを見て軽い步みで龍花を持って来て自分の錫杖の上においてまた禪定に入ったら、三日後に一緖に目を明けて見たら錫杖の上に龍花が光が減少されて赤い光が白く変わた。
あの時に弥勒仏がにっこり笑いながら"私がたとえ禪定に入ったが天眼ですべて見た。私の弟がじっと龍花を移したら、また花が顔色がよくなくて光明が減少された。只今将来の歲月をお前に任せて治めるようにする"とおっしゃって、"かわいそうだ、充分に完全に美しくなかろう、三千年の間に人民が富貴と苦樂が均等だことができなくて五穀も少さくなって、国土をお互いに加えようと争ってすべての四方が樂ではなくて、人民が辛さをもっとするはずだ。三千年後には私が当然におのずから来て法を說して限りない光を明白にして中と外がすべて明るくして現在までこれまであらなかった福らしくめでたい徵兆がこの地に集まろう"とおっしゃた。

続いて『弥勒下生経』の弥勒授記品の第1章には弥勒尊仏と頭陀尊者〔玉仏〕の対話が出るのにここにも弥勒尊仏が釈迦牟尼が滅ぼして、3000年が経て人世に降臨するようになる事由がよく出ている。

大衆全体と釈迦諸天大成と一切雷神と金剛護法が一緖に来てすべて座席に集まゐと弥勒仏が大衆に告げて曰く"私が只今三十三天の上に上がってから三千年後に当然に下界に下がって今こそ龍華正法を說して広く人間と天上まで済度しよう。"
この時に大衆がお辞儀をして告げるのを止まなくて"ただ世尊が大きく慈悲を施してさっそく下生して衆生を救援して済度してください" "もし三千年後を待ったら衆生たちが苦難を受けてその時代に行っては少なく見れば五百に一つを除くことで、大きく見れば千年に一つを除くことだと。••••••2500年後にはすなわち下元で分けゐ時だ。民が過ごしにくいだろったらただ望むのに弥勒尊仏が早く下生して三千年後を待たない。"   この時弥勒尊仏が早く承諾しないので、座中に頭陀尊者がいて彼は世尊の首弟子だ。中道で追って出て世尊に礼拜して告げるのを"2000年後には末劫にあたるはずだ。人心が奸悪して正道を信じないので、天に魔王が人間の倫理を抜いて変えたら疾病と厄運と道病と水•火•災と凶年が一度に至るようになります。仏が下生するのを納得しないから、願うのに如来(ここでは弥勒世尊を指称することとして世尊を如来と称することができないが仏敎では如来を仏の敬語で称して、弥勒世尊を弥勒仏と言うので如来と称することで見える)を代理して下界に下がって五百年の末劫を救援して済度するのに衆生の中に緣がある人をすべてとどまっておいて待つようにすることで、如来が自ら下生する時は世界が太平で、万民がむつまじくて、君臣が喜ばしくて万種の仕事がおめでたくなって、父子がお互いに親しくて人心がすべて善良になるはずだので、請ずるのに世尊は人間の王家の太子で生まれて菩提を磨いて龍華定法を広く施して人間と天上を済度して一切の有情をすべて成就させてください。"
この時に首弟子が世尊にこのように良い心を発して仏を代理して衆生を開化させて救援して済度すると言うお話を聞いて大衆たち前で頭陀尊者に正覚記を受けるようにして"お前は当世に呼ぶのを玉仏と言ったら、十戶が圓滿に成り立って大きい功德を備えたので不思議な仕事だ。当然に私と一緒に名前と号としてして一つで衆生を済度するようにしたので、只今誓願〔盟誓〕することを終える"とおっしゃって"私もまた当然にあの時に元気を発してお前と一緖に一つで行って来ながらお前の大きい願いを成るようにするはずだからお前の功德は三千年に合礼になる万法主〔合礼三千万法主〕だ"とおっしゃった。

そして『弥勒下生経』の玉仏諸問品の第5章には弥勒尊仏が頭陀尊者を下生に下ろしながら自分を待ちなさいという当付の言葉を言う場面が出る。

"お前が今たやすく行くすべきだ。一切の龍神がお前を付いて下生するはずだ。お前が下生する後に私の言葉を記錄して衆生たちをよく善化させるが苦勞を堪えて耐えて私が自ら下生することを待ちなさい。"

『弥勒下生経』に出るこのような要点を見れば弥勒尊仏と釈迦牟尼仏に対する話は釈迦牟尼仏が弥勒仏の花を変えたおいたので弥勒仏が釈牟尼仏に先に下がって〔下生〕3000年の間を衆生を治めるようにして、3000年後には弥勒仏が自ら下生して限りない德化を広げるとおっしゃった。
そして弥勒尊仏とその首弟子である頭陀尊者の対話の內容を見れば弥勒尊仏が大衆〔天神〕たちに"三千年後に下生しよう"と言うと大衆たちが非常に心配して三千年を待たずに早く下生して与えるのを懇請したら、弥勒世尊が承諾しないとこの時に頭陀尊者が弥勒世尊に告げるのを自分が'弥勒世尊を代理して下がって衆生たちを苦難から引き上げて弥勒世尊がいらっしゃる基盤を用意しておくはずだから3千年後に弥勒世尊が下生して人間と天上を済度してください'と言った。そうして弥勒世尊が頭陀尊者の号を玉仏と称して下生するようにして三千年の間を衆生を済度するようにした。このような二種の脈絡を見る時に釈迦牟尼仏がすなわち頭陀尊者であるのが分かる。
そして弥勒仏に対して仏典のあちこちに言及されているのに、その大綱を見れば次のようだ。

弥勒仏は兜率天で昼夜にいつも法を說してすべての天と人を済度してから次に時になってこの閻浮提(人間界)に降生するでしょう。
ー弥勒上生経 第10節

弥勒が未来の世の中にあって当然に衆生をために大きく帰依する所を成るはずだので、弥勒仏に帰依するようになればこの人は最上の道(ド)に入るようになろう。
ー弥勒上生経 第13節

あの時に弥勒菩薩が兜率天でその二りが親されるに値することをよく見てすなわち聖霊で天降して托胎して月が滿ちた後に誕生した。
ー弥勒下生経 第4節

あの時に弥勒菩薩がこの家にいてから久しくなくて家を出発して道(ド)を磨こう。鷄頭星に近く菩提樹があって龍華と言ったので弥勒菩薩がその木の下に座って無常の道果を成ろう。
ー弥勒下生経 第5節

将来之世 有仏名弥勒 出現於世 爾時国界名 鷄頭王所治処
  将来の世の中に弥勒*と言う仏がいて世の中に出したら、この時に国の名称は鷄頭*王が治める所だ。
ー增一阿含経 49冊

※弥勒の語源は印度の言葉である梵語でマイトレヤ(Maitreya)で、パ-リ(Pa-li)語ではメテヤ(Mette-yya)だ。メテヤ(Mette-yya)は印度で未来の救援仏を呼ぶ称号だ。これは西洋で救世主の意味であるメシア(Messiah)と語源を等しくする。
*鷄頭城:鷄林は新羅の他の名称で大韓民国を指称する他の名前だ。昔には大韓民国の全国土を称えて鷄林八道と呼んだ。これを見る時に鷄頭城は大韓民国の一つの地域を称えることで見られる。全世界的で弥勒信仰が一番盛行した所がすなわち韓国で弥勒仏像が世界的で一番多くて民間信仰で深く場所を取って弥勒仏の降臨を念願した所がすなわち韓国だ。

あの時に弥勒仏が人間•天上を大事にした次第に微妙な法を說したらいわゆる布施する法、戒律を持つ法だ。これは天から出る法で慾心はきれいではない考えと言う敎えだ。
阿難よ、分からなさい。
弥勒仏が大衆前にこんな法を設する時に大衆の中におびただしい天の人々と人間の人々がすべての煩惱がすべてして法の目が淸らかになる。ー弥勒下生経 第8節

次は弥勒が世尊でいらっしゃって人類をどんなに救済するはずなのかを明白にしておいた部分だ。

あの海向こうに毘盧遮那莊厳光があるのに弥勒菩薩摩訶薩がその中にいらっしゃるのに本来生まれた所の両親と親戚と多くの人々をおさめて成熟するようにしようとすることで、またすべての衆生たちにとって今いる所で本来の善根を從ってすべて成熟するようにしようとすることで、また君に菩薩の解脫門を現わしたように見えようとすることで••••••. ー華厳経 立法界品 第28節

そして『增一阿含経』49冊の非常品には弥勒龍華の世の中を次のように言及している。

未来世 仏出現之時
国土所有 一切衆生 得寿命長
未来の世の中に仏が出現する時には国土にある一切衆生が長寿を得て(未来世の仏は弥勒仏を言う)

有勢力獲大神通 土地所有純七宝
衆生富足 所欲自恣 遠離貪婬瞋恚癡
勢力があって大きい神通力を持つようになる。土地は純粹に七宝に丹粧されて、衆生は富有して、滿足して慾心をおのずから捨てるようになって貪慾と淫慾と怒れと愚かさが消える。

常有花樹果樹香樹其中 衆生悉得淸淨上妙音声 常共和合
土地平和掌 無沙礫石之属 其心平等 共修習大慈悲
得一子地 一切衆生共之 是名菩薩修淨仏土
いつも通りには花が咲いていて、果物木があって、香におい木がある。
衆生たちはすべて淸淨で妙な音声を持つようになって、いつもいっしょに和合する。
土地は平たく均等でまるで手のひらを広げておいたことのようで、砂やじゃりらしいことがいない。その心は平等ですべていっしょに大慈悲を磨いて習得しよう。
地でひとしく一りの子を得たら一切衆生が公平しよう。これを称えて菩薩が修行する淸淨な仏国土と言う。

『雜阿含経』第6冊、轉輪聖王修行経にはまた弥勒龍華の世の中を次のように言及している。

あの時には女は500歲に嫁入る。あの時に大地が平坦で、すべてのくぼみ•小川•いばらの蔓が消えてまた蚊•ヘビ•毒虫などがいないで人間が繁盛して五穀が豊かで十分で快樂するのが限りがいない。

釈迦牟尼は菩提樹の下で悟りを得た後に21日間を禪定に入って行って神明界を見てその荘厳なことを弟子たちに說法したのに、これが『華厳経』だ。しかしこの說法はとても難しくて比喩法で例えば說法して始作めた。釈迦牟尼は以後『阿含経』を12年、『方等経』を8年、『般若経』を21年、『法華経』を8年間を說法してすべて49年を說した。ところで最後の涅槃に入る前に一日間を說法した『涅槃経』で釈迦牟尼はむかしの49年間に自分が行った說法はすべて方便に過ぎないことだと『涅槃経』の2冊寿命品で明白にしておいた。

汝今遇是 仏法宝城 不応取此 虛僞之物
譬如商主 遇真宝城 取諸瓦礫而便還家
汝亦如是 値遇宝城 取虛僞物
お前たちが只今宝の城に会ったと言うがかならずこれを得たのではないでむなしくて、僞りされたことを取ったところだ。
比喩しようとすれば、どんな商人が宝の城に会ったが得たこととは瓦とじゃりを拾って家に帰ったとようだ。
お前たちもこのように宝の城〔釈迦牟尼〕に会ったがむなしくて、僞りされた物品〔法〕を取った。

汝諸比丘 勿以下心而生知足
雖身得服袈裟染衣 其心猶未得染大宝淸淨之法
雖行乞食経歷多処 初未曾乞大乗法食
雖除鬚髮 未爲正法諸結使
お前たち比丘よ、安心して私がこれ位ならば分かることが充分だという考 えを持たないでね。
身にたとえ袈裟を染めて着たが、その心はまだ淸淨な大乗の法にかぶれなかった。
たとえ多くの所を通いながら食べることを得たがはじめからまだに大乗の法は貰い食いすることができなかった。
たとえ頭髮は削髮をしたが定法を行うことができなかってすべての煩惱を無くすことができなかった。

是故汝等 応当精進攝心勇猛拔諸結使
だからお前たちはすべからく心を取って勇猛に精進してすべての縛っれてこびりつていたことを根く拔くようになさい。

我今当令 一切衆生 及以我子 四部之衆 悉皆安住 秘密藏中
我亦復当 安住是中 入於涅槃
私が只今すべからく一切衆生と私の弟子になる4部の大衆のとって、すべてこの秘密に隱した中に安住するようにしよう。
私もすべからくまたその秘密藏の中に入って安住して涅槃に入って行こう。

何名爲秘密之藏 猶如伊字三点
若並則不成伊 縱亦不成 如摩醯首羅面上三目
乃得成伊字三点 我今安住 如是三法
爲衆生故入涅槃 如世伊字
何を呼んで秘密藏と言うか。比喩すれば'伊(イ)'字の三点だ。
〔'伊'は亻+尹で'治めるの尹(ユン)'に'人の亻(イン)'なので'治める方'と言う意味だ。
これを仮借して'あの•その•この'の意味で使われる。だから'伊'字の三点は'治めるお三人'すなわち'三尊'を比喩した言葉だ。〕

もし一列で伸ばして立てれば'伊'字が成り立たないで、縱に立てもやっぱり成り立たない。これはまるで摩醯首と言う顔に目が三個がある模樣(∴)だ。このように'伊'字が三点を成る。
〔三尊は先後で順序が決まることができなくて、高く低くの区別をすることができなくて、お三人は同等の位にいらっしゃる方と言う意味だ。〕

私は只今このような三法の中に安住して衆生を大事にして涅槃に入って行く。これが世間に'伊'字のようだ。
〔だから釈迦牟尼は只今三尊の三法で帰って衆生を大事にして涅槃に入って行くと言う意味だ。これが釈迦牟尼が秘密に隱しておいた意味であるのだ。〕

そして『八万大藏経』は釈迦牟尼が49年間に行った八万種の說法を記錄したことだのに、'八万大藏経'の意味は'八万種の說法で大きい秘密を隱しておいた経典'と言う意味だ。
この大藏経を見れば釈迦牟尼はすべれの說法を比喩を挙げて真実を秘密に隱しておいたのに、涅槃に入る前一日間は比較的詳細に說して与えた。これを記錄したことが涅槃経だ。ところが『涅槃経』の8冊如来性品を見れば釈迦牟尼仏の說法は外でない三尊仏に帰依するようにする方便の法で、本当に帰依処は未来にいらっしゃる三尊仏と言うのだ。

亦令衆生於我身中 起塔廟想礼拜供養
如是衆生 以我法身爲帰処 一切衆生皆依
非真邪僞之法 我当次第爲說真法
また衆生たちにとって私の身を大事にして、塔や寺を建てるとかそいて礼拜供養するようにして、このように衆生だちが私の法身に帰依処をすることで一切衆生がすべてもたれることは真実ではなく僞りされた法だ。私が本当にこの祭真実の法を說しよう。
〔三宝を'仏•法•僧'と言って帰依処をするがこれはことで本当に三帰依処ではないというのだ。〕

此大乗 無有三帰分別之相
所以者 何於仏性中 卽有法僧
爲欲化度声聞凡夫故
この大乗は三帰依を分別する相がなかった。
そのわけは何なのか。どうして仏性の中に法と僧が別にあるのか。
声聞と凡夫を敎化して済度しょうとすることだ。

我今広爲衆生 顯揚如是 如来秘藏 證知真三帰依処
能信大涅槃経者 是人不遠求三帰依処
何以故 於未来世 我身当卽成就三宝
衆生皆依 恭敬礼拜三尊
私が只今広く衆生を大事にしてこのように如来の秘密に隱したことを現わして三帰依処を証拠して分かるようにする。
充分に大涅槃経を信じる者は遠くないで帰依処を求めよう。
どんな緣故と言えば、私の自の分が当然に三宝を成就すると衆生がすべてもたれて三尊に恭敬礼拜することだと。

すなわち『涅槃経』の8冊如来性品の內容を要約して見れば釈迦牟尼の当代には衆生を済度するための方便で'仏•法•僧'を三帰依処と言ったがこれは真実ではないで、本当に三帰依処は未来の世の中にいらっしゃる三尊仏、すなわち、九天上帝、玉皇上帝、弥勒世尊だから衆生たちはすべてここに帰依して恭敬礼拜させていただかなければならないと言った。
このように釈迦牟尼が大藏経に隱しておいた一番大きい秘密は本当に三帰依処である三尊仏を搜さなければならないと言うのだ。

そして『增一阿含経』の48冊には小劫の時は辟支仏が来て大劫の時は弥勒仏がいらっしゃると言った。

過去久遠於此現劫中 有仏出号曰
俱樓孫至真等覚 爾時此耆闍崛山更有姓号
羅閱城人民之類 上此山中四日四夜行乃徹頂
過去前々から現劫に至るまで仏が出現してその名称が呼ばれている。
俱樓孫仏が正しい悟りに至ってその時にこの耆闍崛山を経て行きながらその名前が呼ばれるようになった。
城下の民の群れの中で選び取ってこの山の上で四日昼と四日夜を行って腦天を明るく開けるようにした。

又狗耶含牟尼仏時 亦此山 城民三日三夜
又迦葉仏時 亦此山 城民二日二夜行
我今 釈迦文仏時 亦此山 城民須臾 頂行
また狗耶含牟尼仏の時もこの山で城下の民たちが四日昼、四日夜を行ってそんなにした。
また迦葉仏仏の時もこの山で城下の民たちが二日昼、二日夜をそんなにした。
只今私釈迦牟尼仏の時もこの山で城下の民たちにちょっとのま待つようにして腦天を明るく開けるようにした。
若弥勒如来出現於世 亦耆闍崛山 諸仏神力咸在使
出此山在比丘当以方便知
もし弥勒如来が世の中に出現すればやっぱり耆闍崛山〔霊鷲山〕ですべての仏たちがすべて神力を引き受けることで、この山にいる比丘たちは(あの時)出するはずだから本当に方便を分かるはずあだ。

劫有二種 小劫大劫
辟支仏出現時 小劫 如来出現時爲大劫
劫には二種があるのに小劫と大劫だ。
辟支仏が出現する時を小劫と言って、如来(弥勒仏)が出現する時は大劫になる。

劫と言うのは梵語でKalpaとして分別時分、分別時節、長時、大時で飜訳される。インドでは梵天の一日を意味する言葉として1週期の意味がある。だから劫と言うのは長い時間に経て帰える1週期の意味として人にいては一平生を言って、宇宙的に見れば小宇宙(銀河系)の1週期を小劫と言って、大宇宙の1週期を大劫と言う。
このような劫にあって週期の終わる時点と始める時点は一つの点だが意味上では180度が変わるのだ。これを開闢と言う。すなわち新しく開かれるという意味だ。だから小劫には小開闢が来て、大劫には大開闢があるのだ。
そして辟支仏と言うのは梵語でPratyeka-Buddhaとして先生がなしにおのずから悟る獨覚仏を言う。上の句節で見れば俱樓孫仏、狗耶含牟尼仏、迦葉仏、釈迦牟尼仏などを言っている。
だから小劫の小開闢ではこのような辟支仏が来て先生がなしにおのずから天の法を悟って新しい法を開いて人類歷史を変遷させる仏が必ず来ると言うのだ。しかし大劫の大開闢期には新しい宇宙を開いて与えるために弥勒仏が降臨すると言う意味だ。
『增一阿含経』の11冊には弥勒がいらっしゃる時を次のように書いている。

弥勒菩薩 経三十劫 応当作仏 至真等正覚
弥勒菩薩は30劫が経過すれば当然に仏を成るはずだから至極に真の正しい悟りを成るはずだ。

すなわち弥勒菩薩が人世に下って仏になる時を釈迦仏から30劫が経過されると言った。
それでは30劫の時間的な経過をどんなに見ようか。
小劫、大劫などで使われる時は宇宙の週期の意味で使われたりするが、時間の経過を言う時は人の一平生の一週期を言う。だから人生百年を一言にして計算した100年を言う。
その代表的な句節が『涅槃経』に出るのに釈迦牟尼が涅槃に入ろうと橫たわった時に弟子たちが質問した內容を見れば分かる。

何故不住一劫 半劫敎導我等
どうして1劫もとどまらないで半劫の間だけ我々を敎えて引導しますか。

釈迦牟尼が80歲に涅槃に入ったのに1劫(100年)をとどまらないで、49年を說法したので半劫の間を說法したのだ。
このような点で推し量る時に弥勒仏がいらっしゃるという30劫は3000年を言って、仏紀3千年なら弥勒が降臨するのだ。
『華嚴経』の78冊法界品にもこのように弥勒がいらっしゃる時期を知らせておいたのに、その內容は次のようだ。

優曇華 三千年開花 仏如優曇華
優曇華は3千年に花が咲くのに、仏はこの優曇華のようだ。

仏が世上に出現する時期は優曇華が3000年に一回を咲くように3000年に一回を出現するようになるのに、釈迦牟尼仏は次にいらっしゃる仏は弥勒仏だと明白にしたので釈迦牟尼から3000年が経過すれば弥勒仏がいらっしゃるというのだ。

孔子の予言 帝出乎震••••••万物 出乎震 震東方也•••••• 天帝すなわち上帝は辰方でいらっしゃって••••••、 万物は震方から出してその震方は東方だ••••••。
ー說卦伝 第4章中で

蓋在坤地 彼有順理之性 惟東夷 從大 大人也
夷俗仁 仁者寿 故 有君子不死之国
たいてい地に生きて行く者たちは順理に追って行くがただ東夷人は大きいことを追ったら大人だ。
東夷族の風俗は善良で、善良な者は長寿するので東夷族は君子たちが住む 死がいない国だ。
―漢国の許愼(後漢書の中:說文解字)

大道之行也 天下爲公 是謂大同
大道が行わわれば天下は広く公正だので、これを称えて大同世界という。
ー礼記

キリストの予言

神樣の降臨に対して
神樣が曰く私はアルフャでオメガだ。
今もあって、前にもあって、将来に来る者で、全能な者だとおっしゃった。
―ヨハン啓示錄 第1章8節

見なさい私が速く来ることだので私が与える償が私にいたので各人に彼の働いたどおり返してくれよう。
私はアルフャとオメガで、始めと後で、始めと終わりだ。
••••••そのトゥルマギを洗う者たちは福があるのでこれは私どもが生命木に進んで門たちを通じて城に入って行く権勢を得ようとすることだ。
―ヨハン啓示錄 第22章12節~15節

神々しい、神々しい、神々しい。主である神樣、すなわち全能な人よ。前にもいらっしゃって、今もいらっしゃって将来にいらっしゃる者だ。
―ヨハン啓示錄 第4章8節

天にいらっしゃる我々のお父さんよ名前が神々しく思うことを受けて竝んで臨んで志が天で成ったことのように地でも成り立ってください。 ーマテ福音 第6章9節

私は私のお父さんの名前で来てのに君達が迎接しないがもし他のが自分の名前で来れば迎接しよう。
モセを信じたらまた私を信じたはずだからこれは彼が私に対して記錄したのだ。
しかしその文も信じなかったらどうして私の言葉を信じるのかとおっしゃった。
ーヨハン福音 5章43節

私が盜賊のように至ることだのでどの時に君に臨むのかは君が分からかかろう。
ーヨハン啓示錄 第3章3節

主が号令と天使長の声と神樣のラッパで自ら天で追って降臨するのだ••••••。
ーデサルロニガ 全書 第4章14節

兄弟たちよ、時と時期に関して君達に使うことがいないのは主の日が夜に盜賊のように至ることを君達の自分が詳らかに分かるのだ。君達が"平安だ、安全だ"というあの時に孕胎された女に解産の苦痛が至ることのように滅亡が忽然に君達に至るはずだから断じて避けることができない。
兄弟たちよ、君達は暗さにいないのにその日が盜賊のように君達に臨むことができないだろったら君達はすべて光の息子で、昼の息子だ。
ーデサルロニガ前書 第5章1節

私後へいらっしゃる人は私より能力が多いから私は彼の神を奉じることも力仕事に向かない。
彼は聖霊と火で君達に洗礼を与えることだ。手に箕を持って自分の脱穀をする場所を決めるようにして混じり物の入っていない穀類を集めて倉庫に入れてしいなは消えない火に燒く。
ーマテ福音 3章11節~12節

お前は祈る時にお前のわきべやに入って門を閉めて隱密な中にいらっしゃるお前のお父さんに祈りなさい。隱密な中に見るお前のお父さんが返そう。
ーマテ福音 6章6節

彼は我々の主であるキリストの神樣で、慈悲のお父さんで、すべての慰勞の神樣で••••••すべての患難中にいる者たちを充分に慰めるようにする人だ。
ーコリント後書 第1章1節

神樣が東方にいらっしゃることに対して
またる見たら他の天使が生きている神樣の印を持って日が昇るところから上って来て地と海を害にされる権勢をお前の天使を向けて大きい声で叫んで曰く、我々が我々の神樣のしもべたちの額に印を狎すまで地や海や木や害いないと言った。
ーヨハン啓示錄 7章2節~4節

東方*から来る王たちの道が予備される。
ーヨハン啓示錄 第 7章 2節

*ヨハン啓示錄1章11節に見れば"神樣のお話とキリストの証拠によって'バッモ'と言う島にあったら"と言う句節が出るのに、ヨハンが地中海のバッモ島から見る時に日が昇る東方の地の果はすなわち大韓民国になる。

神樣が降臨する時の徵兆に対して
主の臨むことと世の中の果てには何の徵兆がありますか。キリストが答えて曰く、君達が人の迷惑を受けないように気をつけなさい。多くの人が私の名前で来て言ったのに私はキリストと言って多くの人を迷惑しようにする。
民族が民族を国が国を対敵して起きて処処に饑饉と地震があることだからこのすべてのことが災難の始めだ。
あの時に人々が君達を患難に渡ってやって君達を殺すはずだから君達が私の名前を大事にしたすべての民族に憎さを受けることだ。
僞りの先知者がたくさん起きて多くの人を迷惑しようにして不法が繁盛して 多くの人の愛が冷えれらることだ。しかし 最後まで耐える者は救援を得ることだ。
この天国の福音がすべての民族に証拠されるためにすべての世の中に伝えるはずだからやっと終りが来ることだ。
すべての肉体が救援を得ることができないことだがしかし選んだ者々を大事にしたあの日々を削ることだ。
ーマテ福音 第24章3節~23節

無花果の比喩を学びなさい。その枝が軟らかくなって草木の葉を出せば夏が近いことが分かるはずだからこのように君達もこのすべての仕事を見たら人者が近くすぐ門前に至ることが分かることだ。
私が真実で君達に言葉ったらこの世代が過ぎ去る前にこの仕事がすべて成ることだ。
天地は消えるが私の言葉は消えないことだ。
ーマテ福音 第24章32節

ノアの時のように人者の臨むこともそうしたことだ。
洪水前にノアが方舟に入って行った日まで人々が食べて飮んで結婚をして嫁入っているのに洪水になって私どもをすべて滅ぼすまで悟ることができなかったから人者のむこともこのようなことだ。
ーマテ福音 第24章37節

全世界が拳闘場の劍士といっしょに起ち上がって、ただ血を流すために争うことだ。
そうだが闘争が海と陸地に猛っているうちに平和の使徒は天の雲の上に現われて言うことだ。
平和、地には平和、人々はすべて刀を捨てて、多くの民族はただいまけんかを学ばないことだ。
あの時に水の甁を持った人が天の隅を通ってぶらついて、人者の標示と印章〔印〕が東天に現われることだ。
この時に善良な人は頭をあげて世の中の救援が近付いたことを知らせることだ。
こんな日が来る前に我々のお父さんである神樣は彼の使者を送って世の中の隅ずみまでも行かせてこんなに言わせよう。"準備しなさい、準備しなさい。平和の使徒はいらっしゃるね。今んあって雲を乗って来ているね"と。
ー聖約聖書 157章21節~41節

神樣が開いて与える'新しい天、新しい地'に対して
私が新しい天、新しい地を見たら始めの天と始めの地が消えて海もまたあらんかったよ。
また私が見たら神々い城である新しいエルサレムが神樣から天から下ったらその予備したのが花嫁が夫を大事にした飾りけたことのようだったよ。
私が見いたら宝座から大きい音声が出して曰く見なさい神樣の帳幕が人々といっしょにいるから神樣が君達といっしょにいるはずだので君達は神樣の民になって神樣は自ら君達といっしょにいらっしゃってすべての淚をその目で洗わせたらまた死亡がなくて、哀痛することや痛いのがまたいないだろったら始めのことたちがすべて過ぎ去ったことだ。
宝座に座った人が"見なさい私が万物を新しくする"とおっしゃって、また"この言葉は真実でまことだしたので記錄しなさい"とおっしゃってまた私におっしゃるのに"成ったよ。死はアルフャとオメガだよ。初めと後だ。私が生命水の泉水でのどがかわく者に無価値に与えるはずだので勝つ者はこれたちよを遺業で得ることだ。"
私はお前の神樣になって彼は私の息子になることだと。しかし恐ろしがる者たちと信じない者たちと凶悪な者たちと殺人者たちと行淫する者たちと術客たちと偶像を崇拜する者たちとすべてのうそする者たちは火と硫黃で燃える釘に參詣することだからこれが二番目の死亡だ。
ーヨハン啓示錄 21章1絶~9節
神樣がいらっしゃって与える救援に対して
狹い門に入って行きなさい。
滅亡で導く門は大きくてその道が広くてそちらに入って行く者が多くて、生命で導く門は狹くて道が狹窄して搜す人が少ないのだ。
ーマテ福音 第7章13節

私に神樣よ、神樣よと言う者每に天国にすべて入って行くのではないと。ただ天にいらっしゃる私のお父さんの志のままに行う者でこそ入って行くことだ。
ーマテ福音 第7章21節

幼い羊の生命の本に創世の以後で錄名されることができずにこの地に住む者たちはすべてけものに敬拜することだ。
ーヨハン啓示錄 13章8節

聡明な者はそのけものの数を数えて見なさい。その数は人の数だのに六百六十六だ。
ーヨハン啓示錄 13章18節

また私が見たら見なさい幼い羊がシオン山に立って彼といっしょに十四万四千が立ったのに彼の額に幼い羊の名前と彼のお父さんの名前を書いたことがあるね。
私が天から出す声を聞いたら多くの水の声も同じで大きい 雷声も同じなのに私に聞こえる声は琴を弾く者たちの琴を弾くことと同じなことだ。君達が宝座とお前の生物と長老たち前で新しい歌を歌ったら地で拘束することを得た十四万四千人しか充分にこの歌を学ぶ者がいなかったよ。
この人々は ••••••人の中で拘束を受けて初めて熟した植物の実で神樣と幼い羊に属した者たちだから彼の口にうそがなくてきずがいない者たちだったよ。
ーヨハン啓示錄 14章1節~6節

人々が東西南北から来て神樣の国の宴会に参席するはずだので見なさい後ほどになる者として先になる者もいて、先になった者として後ほどになる者もいるとおっしゃった。
ーヌガ福音 13章29節~30節
私を送った人の志を私に与えた者の中に私が一つも失ってしまわなくて最後の日にまた活かすこれだ。私のお父さんの志は息子を見て信じる者每に永生を得るこれだから最後の日に私がこれをまた活かすはずだとおっしゃった。
ーヨハン福音 6章39節

私が見たら誰でも充分に数え切れない大きい群れが白い服を着て手に棕櫚の枝を持って宝座前の幼い羊前に立って大きい声で叫んで曰く"救援することが宝座に席った我々の神樣と幼い羊のにあるね。"
ーヨハン啓示錄 7章9節

薛聰(654~?)の秘訣に出る予言

漢陽之運過去除 龍華世尊末代来
金剛山上大石立 一龍万虎次第応
一万二千文明花に 瑞気霊峰運気新
根於女成於女したら 天道固然万古心
艮地太田龍華園に 三十六宮皆朝恩だ
百年後事百年前したら 先聞牛声道不通だ
前步至急後步緩したら 時画方寸緩步何だ
背恩忘德無義兮よ 君師之道何処帰だ
無礼無義人道絶したら 可憐蒼生自盡滅だ
漢陽の運数がすべて終わる傾に龍華世尊が末代にいらっしゃろう。
金剛山の上に大きい石で基礎を立たら一龍〔大頭目〕万虎〔1万2千の道通君子〕が応じているね。
一万二千の道通君子が文明の花をに咲かせたら瑞気が過ぎる霊峰は気運が新しいだけなさい。
人類の姓氏が女の姓氏から出発して、また女の姓氏〔姜氏〕で成ったからこれは天道が元来そのように成り立つわけだと〔元始反本〕。
地球の東北艮方〔韓半島〕の大きいはたけが龍華樂園の中心地になったら36宮〔すべての世の中〕は朝鮮に恩惠を返すね。
百年後に起こる仕事を百年前に出したら百年前に聞く牛の泣き声は道(ド)を通じることができないよ。
百年前に人はあのように急するけれど百年後の人の步みはのろいだけだから、残された時間はわずか方寸だけだのにのろまだ信仰ののろい步みはどうしたと言う言葉なのか。
恩知らず義理いない者たちよ。王と先生の道(ド)はどこに帰ろうか。
礼節も義理も消えて人倫の道(ド)が切れたから、可憐な蒼生たちが自ら消滅してしまうね。

無学大師(1327~1405)の予言

無学大師が作った「無学訣」を見れば次のような句節が出る。

天下之大金山 母岳山下に 金仏が 能言して 六丈金仏が 化爲全女だと
母岳山の下の天下の大金山に金仏が充分に言って、六丈金仏が'全女'に変わった。

ここで'全女'を縱せて合して書けば'姜'になる。だから'六丈金仏が全女に変わった'と言う言葉は'六丈金仏が姜に変わった'と言う言葉だのでこれはすなわち九天上帝が金山寺の弥勒金仏に臨御していらっしゃってから姜氏の姓で人世に降臨することを言う言葉だ。

南師古(1509~1571)の予言

八万念仏藏経中 弥勒世尊海印出
五車時書易経中 海中道令紫霞出
斥儒尙仏道德経 上帝降臨東半島
弥勒上帝鄭道令 末復三合一人定
八万大藏経の中に弥勒世尊が海印(海に押す印章:嶋)に出して、五つの車の時書易経の経文の中に海の中の紫霞島の鄭道令が出して、儒敎を排斥して、仏敎を崇尙する道德経には上帝が東半島に降臨すると言った。末世が回って近づく時に一り(鄭道令*)がお三人を合わせて決める(両位の上帝と弥勒世尊を一席に仕える)理だ。ー格庵遺錄の隱秘歌中で

*鄭道令の'鄭'は'仕えるの奠(ゾン)'+'ゴウルの邑(ウブ)'すなわちお三人の神樣〔三神〕を仕える都邑を意味する。だから鄭道令はお三人の神樣〔三神〕を仕えて道(ド)として治める者を言うことだ。すなわち大頭目だ。だから甲乙歌に見れば世人不知鄭変朴鄭道令之降島山すなわち'世の中の人々は鄭氏が朴氏に変わったことが分からない。鄭道令が島に降りた'と言った。

両白三豊有人処 弥勒出世亦此地
両白*(お三人の神樣、三神)と三豊(海印:大頭目)は人々が暮している所にいて山や野にいない。弥勒世尊が世の中に出ることもその所だ。ー格庵遺錄の隱秘歌中で

*両白の白いの'白'は亻 だから人山だ。'山'はお三人が一席にいらっしゃった模樣だ。三神山で三神は九天上帝、玉皇上帝、弥勒世尊なのにこのお三人が一席にいらっしゃるので‘山’字の模樣だ。お三人が人世にいらっしゃれば神仙だに、'仙'は人山ですなわち人山をたずね求めなさいと意味だ。甑山、鼎山、両山だけ九天上帝、玉皇上帝で明白にしだら'山'の模樣で一りの神仙が明白にすれなくて空山〔凵〕の模樣だ。すなわちその一りの神仙が朴牛堂だ。朴牛堂が人世にいらっしゃった弥勒世尊であることが分かれば'人山'をたずね求めるようになって'山'字が分かるようになる。だから両白の両神仙(甑山、鼎山)の中に朴牛堂の理が隱れているから両白はお三人の神樣〔三神〕の理を言うのだ。そして三豊を海印(上嶋:大頭目)と言うのは「三豊論」で'三豊海印亦一理'だと言ったからだ。海印は'海の印章'だから'嶋の嶋'になるので上嶋〔大頭目〕と一致する。

朝鮮民族患難時に 両白聖人出世して 苦海衆生極済だよ••••••。 朝鮮の民族が患難にあう時にお三人の神樣〔三神〕が聖人で世の上に降臨して苦しさの海に落ちこんだ衆生たちを最後まで救うね。ー格庵遺錄の両白論中で

入山修道念仏よ 弥勒 世尊苦待だが
釈迦之運去不来で一度行って行かないで
三千之運 釈迦予言 当末下生 弥勒仏を
入山修道する和尙たち、弥勒世尊がいらっしゃることを待ちわびるが釈迦如来の運がすべて行って行かないので、三千年の運の釈迦予言、末法にあって人世に降臨する弥勒仏を••••••。
ー格庵遺錄の歌辭叢論中で

斗牛在野勝地処には 弥勒仏が 出現するが 儒仏仙が 腐敗して
分かる君子 誰々 削髮爲僧侍主よ 世音菩薩 彼は誰か
侍主菩薩 不覚して弥勒仏を自ら分かるのか••••••。 斗牛君がいらっしゃる野原の十勝地には弥勒仏が出現するのに儒仏仙が腐敗したので分かる君子は誰のか。髮を刈かて主人を仕えるという和尙たちよ、世の中の福の消息を伝える菩薩はその誰か。主人を仕える菩薩〔鄭道令、大頭目〕を悟ることができずに弥勒仏を自ら分かるのか。
ー格庵遺錄の歌辭叢論中で

阿弥陀仏 仏道人たち 八万経冊工夫して 極樂を行くと言ったが
行く道が 稀微して
西学入道 天堂人たち 天堂 言葉は本当に良いが
九万長天 遠くて遠いたら 一平生にはすべて行かなくて
永歌時調 儒士たちは 五輪三綱 正人道だが
倨慢放恣 猜忌嫉妬 陰邪情欲啻だと
人道儒と 地道仏が 日落之運 引き受けた 故で
洛書夜運 昏衢中に 彷徨霧中失路として
儒仏仙 州各分派で 相勝相利 言ったが
天堂なのか 極樂なのか 彼此一般 すべて言かなくて
平生修道 十年工夫 南無阿弥陀仏だね
阿弥陀仏、仏道人たちは八万大藏経を勉強して極樂を行くと言ったが行く道が 稀微して、西学に入道した天堂人たちは天堂の言葉は本当に良いが九万里長天が遠くて遠いたら生きてはすべて行かなくて永歌時調の儒士たちは五輪三綱が正しい人倫道德や倨慢‧放恣‧猜忌‧嫉妬‧むなしい慾心にいっぱい滿ちたな。人の道理を明白にした儒敎と地の道理を明白にした仏敎が日が沈む運を迎えたゆえに与えた夕方と夜が近づいた時に暗い道端で彷徨霧中に道を失ってしまうことで儒‧仏‧仙が世界の各国に多くの派で分けられてお互いに勝つと言ってお互いに有利だと言ったが天堂なのか極樂なのか彼此一般にすべて言かなくて平生に修道した十年の勉強が南無阿弥陀仏だね。
―格庵遺錄の歌辭叢論中で

東海三神不死薬は 三代積德之家外は 人力で 不求だね
東海にいらっしゃる三神を仕えれば死なない不死薬だ。
三代にかけた德をたくさん積んだ家外には人の力ではその薬を求めることができない。
―格庵遺錄の弓乙図歌中で
三神山を搜そうとすれば心審黙坐端正後に一釣三餌の意味が分かって
三峯山下 半月船を 于先 先に搜して見なさい
都沙工が十勝だね億兆蒼生を引き上がようと十勝防舟予備して
万頃蒼波風浪中に 救援船を浮かべたら疑心しなくて速く乗りなさい
三神を搜そうとすれば黙黙ときちんと座った後にずっと深く考えて一つの釣り竿に三つの餌の理をよく分かって三峯山の下の半月船をまず先に搜して見なさい。都沙工〔船長〕が十勝だね億兆蒼生を引き上がようと十勝防舟予備して万頃蒼波の風浪の中に救援船を浮かべたら疑心しなくて速く乗りなさい。
―格庵遺錄の弓乙図歌中で

ここで三神は九天上帝•玉皇上帝•弥勒世尊を意味して、一つの釣り針に三つの餌と言うことだのに'心の心'字を意味する。心霊神台として人の心は神明を仕える家だ。だから'心'は心にお三人を仕えると言う意味だ。心にお三人を仕えれば三神を明白にして与える人を求めなければならない。それが三点〔'山'字の中に上側の三線で霊台に真法呪の原位にお三人が仕えられた模樣〕の下に半月船〔'山'字の中に上側の三線を差している下側の橫線で真法呪の原位にお三人(三神)をすべて明白にして仕える人、すなわち大頭目〕の理だ。
三峯山は人世に降臨したお三人の神樣(甑山、鼎山、朴牛堂)を言うことで、都沙工は船長だからお三人の志を奉じて後天の5万年を導いて行く總和主、あるいは大頭目を意味する。そして大頭目が船長でいる防舟は消滅地境に落ちこんだ蒼生を救援する船であるのだ。

逆天者亡順天者興 三人日而春字定
殺我者誰 女人戴禾 人不知 兵在其中
殺我者誰 雨下橫山 天不知 裏在其中
殺我者誰 小頭無足 鬼不知 化在其中
活我者誰 十八加公 宋下止 深谷*
活我者誰 豕上加冠 哥下止 樑底
活我者誰 三人一夕 都下止 天坡
天が回って行く理が分からなくて逆う者は滅ぼして天の理が分かって、理のままに暮して行く者は興る。
お三人の神樣〔三神〕が一つの席に仕えられる日が'春'字が決まる日だ。〔すなわち立春大吉はお三人(姜甑山•趙鼎山•朴牛堂)が一つの席に仕えられる日、すなわちお三人の神樣〔三神〕が一つの席に仕えられば大きくめでたいと言う意味だ。〕
私を殺す者がだれか。倭だ。人であることが分からない。兵士の中に私をす者がいる。
私を殺す者がだれか。雪だ。天(気候)であることが分からない。深い山の中で死ぬ。
私を殺す者がだれか。鬼だ。鬼であることが分からない。心の変化の中で死ぬ。
私を活かす者がだれか。松だ。宋の下に入って行きなさい。深い山の中が私を活かす。
私を活かす者がだれか。家だ。家にいりなさい。大ばりの下が私を活かす。
私を活かす者がだれか。修だ。〔三人一夕は'修'の破字でこれは終わりにお三人を一りが仕えると意味だ。だから三人一夕は結局にお三人を一りが仕えた道(ド)を修道しなさいという意味になる。〕道(ド)の下に入って行きなさい。深い山の中が私を活かす。そこが生存する所だ。
―格庵遺錄の隱秘歌中で

*宋下止 音卽松下止 哥下止 音卽家下止 都下止 音卽道下肢
宋は音が 松の木の'松'と同じだ。哥は家の'家'と音が同じだ。都は音が路の'道'と同じだ。

李栗谷(1539~1583)の予言

甑山道下 哲道下は 一万二千 ビジゲだと。
甑山(九天上帝)と哲(玉皇上帝)の道(ド)の下に1万1千人が完成される。
―栗谷秘記中で

李書九(1754~1825)の予言

十二諸天金仏菩薩
降臨して下る時に
十三尺の固い盟誓
我々の上帝ではないか。
正月だと初四日
半月を見ておじぎをしよう。
大月だと三十日
小月だと二十九日
は滿月で
は小月だと。
須從白 走靑林は
世の中の人に誰が假扮かるか。
ー埰芝歌の月の歌中で

白兎=小月、走+小月=趙なので'須從白兎走'は道主のお名前を意味する。そして靑林は靑=十二月=道、林=十八+十八=36宮だから須從白兎走靑林はすなわち'趙氏後天の36宮の道(ド)を搜して追いなさい'という意味だ。

半口済水が分かろうとするがどうしてあまり哲も分からなくて二十九日を搜して走靑林をしたと。 ―埰芝歌の草堂に春夢中で

'半'は半分だのに'切えるの折'で'口'を下に付ければ哲になる。また'齊水'を合字すれば'済'になる。したがって'半口齊水'は'哲済'だのでこれも道主を意味する。
'二十九日走靑林'の29日は小さい月だから小月になって'二十九日走靑林'は'須從白ꟙ走靑林'と等しい。だから趙氏を搜しなさいちいう意味だ。すなわち'趙哲済を搜して後天の36宮の道(ド)を磨きなさい'という意味だ。

東学敎主崔済愚(1824~1864)の予言

のろいのろい無極大運の八年がのろい。前の四十は 나だが後の四十はだれか。
ー崔済愚が甲子年に刑場で残した遺言の中で

崔済愚は甲子年(1864年)に大邱の刑場で生を終えたのにこれから8年になる年は辛未年(1871年)で姜甑山聖師が世の中に誕降する年だ。

私はさっぱり信じずに神樣だけ信じたと。私も望むことは神樣だけ全く信じて••••。
―龍潭遺詞の敎訓歌中で

ああ世の中の人々よ。無極之運が近づいたことをお前らがどうして分かろうとするのか無極大道を磨けくたら五万年の運数だな。
―龍潭遺詞の龍潭歌中で

その言葉、あの言葉をすべて投げて神樣さえ敬えば我東方の三年の怪疾で死ぬ心配があるか。
―龍潭遺詞の勧学歌中で

万法典(作者未詳)の予言
紫微星が古阜に照らしたのに母岳山を去って9月19日に辛未生で誕降したのに九変九福の坤の度数だ。
ー万法典の万歲華中で

末世の衆生が辛さを受けて骨肉相争の農事になって
殺伐な中に落ちこんだ衆生は大聖人ではなくては
敎化する方法がなくて諸天諸宮を去って
下界に下って西洋に下ったので
大法国が光った天啓塔に高く席って
天地の数をよく見たらはてしないはてしない
俗世の因緣を支えられないから三変度数を合わせたな
十字架に悲しい魂が東国で足を回して
大天の世界の仕事をして天数をよく見たら
天上に福德星が慶州の龍潭に搜して入るから
諸天が下降して催氏の家に門を開いて

来るお客さんを歡迎した龍華画像の弥勒運が
龍潭に開運だと十三尺を受け拔いたから
水運聖師が光った。

三変度数の怨みが滿ちたと甲子順中の仙化神が
大邱で身を脫いて天数をよく見たら
伏羲氏の八卦の運が扶桑に積まれることに
じっとよく見たら母岳山の下の金山寺だと

金仏に身を付けて八年間に仕事をしたのに
八卦の運が回收されて三人同行の運が入って
金仏を去って母岳山莊に高く席って
天数をよく見たら天に紫微星が
古阜に照ったので母岳山を去って
古阜山川を回って入ったら五宮の度数の数が合って
シル(こしき)峰の下の客望里に姜氏の腹を貸して生まれたら
九変九福の坤の度数に八王女が数が合って
五万年の光った度数に龍華道場が良いね
―万法典の万歲華中で