九。六度数
度数と言うのは時間の流れによって限界に至れば次の段階に変化されるようにされている一種の流れを言う。
以前に中国の宋代の賢者である邵康節は人類の歷史でこのような度数を発見して人類歷史の変遷の過程を6段階に分けて說明したのにこれを六度数と言う。
六度数には人類に与えられた道(ド)が歷史の変遷を通じて形成されて発展してから結局は墮落して消滅して無道な禽獣の世の中で帰るようになるということを明白にしておいている。
どうすれば人類歷史は道(ド)が至極に正しく立てられた皇時代から太平聖代の帝時代を経りながら以後ではしだいに墮落されて禽獣と違うところない末世の無道な世の中で変化されて行くように編まれていたかも知れない。
邵康節はこのような度数の流れを把握いて彼の著書『皇極経世書』で人類歷史の変遷の過程を6段階で明白にしておいたのに、これが六度数だ。
所謂皇帝王覇者 非擉謂三皇五帝三王五覇而巳
但用無爲則皇也 用恩信則帝也 用公正則王也
用智力則覇也 覇以下則夷狄 夷狄以下 是禽獣也
いわゆる皇•帝•王•覇というのは三皇•五帝•三王•五覇のみを称えるのではない。
ただ無爲を使えば皇で、恩惠と信賴を使えば帝で、公正することを使えば王だ。
智慧と勇力を使えば覇で、覇の下は夷狄で、夷狄の下は禽獣だ。
邵康節の六度数はこのように6段階の歷史の流れによって人間性が墮落されて行くのだ。
すなわち人類の歷史はその間に皇•帝•王•覇の時代を経て来て、えびすの時代を経てもっと墮落して道德性がいない人間の皮の禽獣時代になるというのだ。
この邵康節の六度数をもっと具体的に現わして見れば次のようだ。

我々が「伝敎」を通じて見たように初統初会には代代に聖人が出て至極道(ド)を立てて民たちに利益〔德〕を与えたが、その後初統中会では聖人がずっと継承されることができずに、一会(513年)に一りの聖人がその会期の間を担当してから中統から代を繰り返えすほど聖人の敎えがしだいに弱くなって聖人が道(ド)を行うことができずにただ敎えだけ伝えた。そして季統に至って賢人たちが来て聖人の敎えを継承したが至極な聖人の境地に至ることができなくてついに道(ド)は伝えられるとができずに切れた。
このように人世に500年の間隔で聖人が下って敎えを与えたが聖人が残して与えた道(ド)がますます弱くなって行くこととして人間がしだいに道(ド)を喪失して禽獣で転落して行くのにこれは六度数と無関ではない。
だから我々は六度数に現われる人類の歷史の流れを通じて人世に道(ド)がどんなに立てられて変って来たことを診断して見ることができて絶対絶命の危機である末代に至って新しい道(ド)が立てられなければならない状況を糾明しようとするのだ。
1。皇時代(BC 3528~BC 2592):配天立極曰皇
三皇の時代として天といっしょに至極に正しく立てられた時代を言う。
三皇と言うのは、天皇太昊風伏羲•地皇炎帝姜神農•人皇皇帝姬軒轅を言う。
太古に三皇が来る前人類は草の葉やけもののかわで身を覆って生きたけものを捕って血食して、木の実や草根で延命して地をほって穴の中に 暮して野原に草を覆って身をすくめて暮したのに生活の道理が具備されることができずに、王がなしに集まってお互いに争って奪って弱者は死んで强者は奪めたら人道が具備されることができなくてまるで禽獣のようだった。
天道が蒼蒼したが道(ド)が分かる方法がなくてその利益〔德〕を取る方法がなかったのだ。ここに三皇が下って天の時〔天時〕が分かって、地の理〔地理〕を明白にして民たちを育てる器具を作ったら衣服と食べ物と家と各種の用器が備えて民たちが必需品を得て生を樂しみながら生業に樂になった。
そしてまた安逸に過ごしながら敎えなければ禽獣に近くなることを心配して人心を付いて天理を根本でして敎化の器具を作って敎えたら民が賢くなって天理に順応するようになった。
だから万人が三皇を仰いで疑問があれば敎えて与えるのを求めて、争うことがあれば解決して与えるのを求めて難しさがあれば導いて与えるのを求めたら民たちの君師の職責を導い与えることができなかった。ここに民たちが奉じて王にしたのに民心の向かうところがすなわち天命の戻って来るところだ。万民の王になって治めたら天道の利益〔德〕を民たちが受けるようになった。
伏羲(ボックフィ、BC3528~BC3413)は今から約5500年前の人で『桓檀古記』の神市紀には倍達国の第5代である太虞儀桓雄の十二人の息子たちの中で末っ子として神市で生まれて雨師の仕事を引き受けて風山で暮したので姓を風と言ったと言う。
この風の姓は後に遂に割れて佩、観、任、己、庖、理、姒、彭の八種の姓になって風氏は消えて今はただ風体、風骨、風身など身の称号だけ伝えられれる。
太昊伏羲氏は黃河から出た龍馬の背の紋樣を見て初めて八卦を決めたのに、この八卦の形象によって神を天に封じて神明の德を通じて万物の情を分類して陰陽の治めを明白にした。
神明の德と言うのは乾は强くて〔健〕、兌は憙びになって〔說〕、離はぎれいで〔麗〕、震は動いて〔動〕、巽は入って来て〔入也〕、坎は拔けて〔陷〕、艮は止めて〔止〕、坤はよる〔順〕のだ。
万物の精と言うのは乾は天になって〔天〕、兌は池になって〔澤〕、離は火になって〔火〕、震は雷になって〔雷〕、巽は風になって〔風〕、坎は水になって〔水〕、艮は山になって〔山〕、坤は地になる〔地〕のだ。
だから伏羲は人間の吉凶禍福が神の動きにあることが分かって神に祭祀を執り行なうようにした。また大樑をあげて屋根をふいて、部屋を作って家を建てる方法を敎えて風雨を避けるようにして住居を樂樂してくれて、儷皮〔一つの双の皮なのに婚礼の納幣で使う〕を納幣の礼物でして嫁入って結婚をする制度を作って家庭を成るようにした。網を作って狩りをして魚を取ることを敎えて民の腹一杯にさせて、けものを飼ってこれを犧牲して(神に祭祀を執り行なうために)庖廚(ここでは犧牲物を屠殺して料理する料理長)を作ったから彼を庖犧と言った。結繩文字を作って政治したら民たちは秩序が取れて樂だった。
伏羲(ボックフィ)が行ったと神農(シンノング、BC3218~BC3078)が起きた。
神農氏は姜水で暮したので姓を姜氏と言って今日までつながるので人類の姓氏の始めになる。
中国の歷史書『十八史略』を参照すれば"炎帝である神農氏の姓は姜氏なのに、初めてはたけを耕すことを敎えて、いろいろの草を味わって初めて医薬を作って、また昼に市場を作って品物をお互いに取り交わして行くように人々に敎えた"となっている。
炎帝の時に至って民たちが魚やけものを食うことをいやがったから初めてすきと犂先(犂の端にはめる道具)を作って天下の人々にはたけを耕すことを敎えて、種を播くことを敎えて、草取りをする利益を敎えたので彼を神農と呼んだ。
神農氏は石の中で金属を溶解させて農器具を作る鋳造法を敎えて、また約束と場所を決めて人を集まるようにして市場を作って品物をお互いに取り交わして行くようにしたら民たちの生活が樂しくて豊になった。
そしてあらゆる草を味わってその薬性を試験して医薬を敎えたからこれを書いた本が『神農本草経』だ。
こういうわけて民たちは病気から救済されることができた。だから炎帝神農氏から士農工商の根になって医薬の始めになるつもりだ。
神農氏が行ったと黃帝軒轅(BC2692~BC2592)が起きた。
黃帝の姓は公孫で名前は軒轅(ホンワン)だ。姬水で長らく暮したので姓を姬と直した。
伏羲氏と神農氏の時には民たちの生業が安定になって樂だって衣食住はたとえ充分だったが人文が現われなかった。それで黃帝が日月星辰の形象を見て初めて天文の官職を置いて、大撓に命じて北斗の示すことを観察して甲子〔十干、十二支〕を作るようにして、容成に命じて冊曆〔日月の動きと節期を記錄した本〕を作るようにした。そして隸首に命じて算数を作るようにして、伶倫に命じて宮商角徵羽の五音と六呂と六律の音律を作った。そして史官だったチャングヒル〔蒼爲〕が鳥やけものの足跡を見て文字を作った。
だから天文、地理、人事がすべて黃帝から敎えが始まて、すべての法とすべての文の根源になる。天の道(ド)が初めて人間に与えられるようになった。
また黃帝が木を割って船を作って木を削って櫓を作って通じることができなかった所を渡るようにして、牛と馬を使って重いことをひいて遠く至るようにして民をよくした。
臼ときねを作って万民を救済して、木をたわめて弓を作って木を削って矢を作って天下を威圧した。蚩尤(チウ)が干と戈を作って乱を作って霧を起こして見分けることができないようにするので指南車を作って平定した。これを'涿鹿戦闘'と言う。
国を九州で分けて8種の法を作って治めたら天下に秩序が具備されて民は平安を取りもどすようになった。
2。帝時代皇時代(BC 2598~BC 2208):德合四海曰帝
五帝時代として三皇の以後代代に聖人がつながって德が四海に過ぎて流れた太平時代だった。
聖人が天道で手本としてその理として治めて民たちにとって怠けではないようにして神通なことで敎化して民たちにすべてのことを気樂にしたら民たちは各各自分の本分をつくして服をたらしていても天下が治められた。
黃帝の以後少昊、顓頊、帝嚳、帝堯、帝舜に至るまで五帝が代をつづけて神聖な王だった。
少昊金天氏は黃帝の息子だ。帝の位に上がると、鳳凰が飛んで来て踊ったと言う。黃帝をつづけて天門と地理、人事を広く勧獎して九州に法を立てて行ったら天下がよく治められた。
顓頊高陽氏は昌意の息子で軒轅の孫子だ。小昊氏の後をつづけて卽位した。
小昊氏の政治が衰退されて黎氏の九人の諸侯も德を失って道(ド)が乱れていられたと民と神が混ぜて暮したので区別しにくかった。こういう乱世に後を受け継いで南正の官職にいた重(ズング)という人に天に関する仕事を引き受けるようにして宗敎行事を任せて、火正の官職にいる黎(ヨ)に地上の仕事を管理させて民政を任せた。それで和平になった。また曆書を作って孟春として元をした。
顓頊高陽氏は非常に沈着して智略が豊かで事理に明るかって農作物を作って家畜を飼って荒れ地を掘り起こした。季節と気象の変化を考慮して仕事を処理して自然に順応した。同時に鬼を信奉することを礼と制定して、民たちを敎化して気質を跳躍するようにして、齋戒沐浴して信実な心をつくして天と地の神々に祭祀を執り行なった。北には幽陵(ユルング)、南には交阯(ギョジ)、西には流沙(ユサ)、東には蟠木(バンモック)に至った。各種の動植物、山河の多樣な神々に至るまで凡そ日が映る所は彼に復属しない者がいなかった。
帝嚳高辛氏は少昊金天氏の孫で黃帝軒轅の曾孫だ。顓頊の後をつづけて卽位して亳(バック)に都邑した。生まれながら神性を取り揃えた神童で、自分の名前をおのずから言えた。自分の利益をはからなくて人々にひろく恩德を施した。
観察力が抜きんでて事物の奧妙して不思議な理を探索した。民の要求を聞き入れて慈しみ深くて威厳あって寛大して信義が厚かった。世俗に染まらないで清廉潔白して天下が帰依した。生産物を節約して民たちを慰撫と敎化として勢を流れによって有利するように導いた。日と月の運行に対する曆法を制定して季節の変化を推定して鬼に対して調査して丁寧に仕えた。彼の態度は丁寧して、高尙な德行を持っていた。行動は時意に適切して儉素ななりをして公平無私するように仕事を処理した。恩德を施して和平してすべて彼に帰依した。
帝堯陶唐氏は姓は伊祁で名前は放勳だ。帝嚳の息子で皇帝の玄孫だ。『史略』に"彼の善良なことは天のようで彼の賢いことは神のようで民たちが日を從うようにして民たちが雲を望むようにした"と言った。平陽府〔サンアゾ〕に都邑を決めて国を治めた。
彼は謹身節度して身として民たちに模範を見せた。宮殿の屋根をチガヤで覆って、その果てはきちんと切らなかった。宮殿の層階は土で作ったのに3階だった。(当時天子の宮殿の踏み石は木または石で作って九階にした。)
庭に蓂莢と言う草があって十五日までは每日葉が一つずつ出て、十五日の後からは一つずつ落ちるのに小さい月(29日の月)には落ちなくてそのままに乾いてしまった。これを見て旬(十日)、朔(一日)が分かってこよみを制作して敎えたら民たちは計画して準備することができる。天道の偉いことは無爲而化(するようではないのに成り立つこと)なのに堯(ヨ)はこれを手本として治めたわけて民には王がいながらもないようにした。
堯王は平服をして通りに出て童謠を聞いたら子供達が"我々の万民が進むことは君の至極して分かるように分からないように君の道(みち)を從うのね"と歌ってまた一りの年寄りがお腹をたたいて地を踏みならして拍子を合わせて"日がのぼれば働いて、日がくれれば眠るのね。井を掘って水を飮んで田と畑を耕してご飯を食べるのに王の力がなんの所用があろうぞ。"と歌った。 堯王の治世は太平聖代を成った。
そうですが堯は息子である丹朱に帝位を譲えないで、ただ囲碁を敎えたながら心を磨くことを言って、舜(スン)に二りのむすめを与えて帝位を譲った。
帝舜有虞氏の姓は姚氏で、名前は重華だ。瞽叟の息子で、顓頊の6代孫だ。
『史略』を参照すれば"彼が歷山ではたけを耕したら民たちがすべてお互いにあぜを譲歩して彼が雷澤で魚を取ったら民たちがすべて魚を取る所を譲歩して河濱で土器を燒いたら器が一つも醜いとか曲がることがなくて、彼が暮す所にはどこでも1年ならば里を成って、2年ならば邑を成って3年ならば都会を成った"と言った。
堯王は自分の帝位を譲る者を求めた中このような舜の立派な德望を聞いて彼を畎畝(ギョンム)で拔いてあげて大きく使って自分の二りのむすめである娥黃と女英を舜に嫁がせて彼を試験した。
彼は堯を助けて摂政しながら驩兜(フャンド:堯王の時の悪人)を追放して、共工〔百工の仕事をした官吏〕を流配して、鯤(ゴン:禹王のお父さん)を死んで、三苗(堯舜時代の国名)を下げて、智慧と才能が抜きんでて八元(八人の善良な者)と八凱(八人の和合した人物)を起用した。九人の官吏を置いて農耕、治水、祭祀、音樂などを管掌するようにして12牧(ゴウルの長官)を諮問機関にしてお互いに議論したら天下はよく治められて民はすべて喜んだ。ここに堯が舜に帝位を讓った。
堯は舜に帝位を讓りながら"あ、舜よ、天の曆数が君にあるのに真実でその的中したことを取って政事を見守ることだ。四海が貧乏になれば天から下りた福祿が永久に切れるはずだ"と言った。
堯の後をつづけた舜はおのずから働かなかったが天下はよく治められた。彼は立派な人才を登用して多くの職責を委任したわけにおのずから働いた名残が見えないのだ。ただ彼は王の席にあっただけだった。これが的中したことを取って政事を見守ることだ。
舜が堯の後をつづけて天下を治めたら天下は太平して万民は彼を仰ぎほめたたえた。
ところで舜また息子である商均がいたが帝位を譲らないで禹が治水をよくして天下に德をかけたので禹に帝位を譲った。
三皇によって至極に立てられた道(ド)は堯舜に至って広く成り立って德が四海に過ぎた。
天道を根本にして人道を直したら父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の道理が確立されて制度を用意したので過度なことを抑制して及ぶことができなかったことは引き上げて法に適当にさせて、善良な者は起こして悪い者は懲戒したから天下は太平した。
正しいことを敎化して怠けな者をいないようにして天時に順応して地理を応用して士農工商を獎勵したら物産が豊かで民たちは生を樂しんで業を樂にして民心がひとりでに戻って来た。
3。王時代(BC 2205~BC 770):継天于世曰王
王が天の志を受き維いで世の中を治めて行った時代だ。
禹王が石柱で九年間の洪水を防ぎ止めることを見て舜は天下を禹に讓った。
禹王の名前は文明で、堯王の時代に治水を引き受けた鯤(ゴン)の息子で、顓頊の孫だ。
堯王の時に大洪水ができて峰まで一面水浸しを成るようになゐと堯王は水を治める人を求めるようになった。四岳(堯王の当時の官職名)が鯤(ゴン)を勧めして治水を担当するようにしたがかえってつかえて治めることができなかった。
この時に堯王は自分の後を引き維いで天下を治める舜を搜して王勧を移讓した。ところで王勧を受き維いだ舜は鯤(ゴン)を翊山へ帰鄕を送って死ぬようにした。すると禹はお父さんの不名誉をそそぐために治水を引き受けようとするので舜は禹を起用して治水を引き受けるようとしたら彼は全心全力をつくして外地に暮して治水の期間8年間に3回や彼の家の前を通ったが一回も家に立ち寄らなかったと言う。
そして遂に9州に9個の水路を作って9道を通じるようにした。
また9個の大きい湖に堤防を積んで大きい山9個をくぐった。これを舜に告げると舜は彼の事業を称讃しながら"地が平*して天が成り立たら六府*と三事*が真実でよく治められて万歲のように永遠に賴るようになったのにこれは君の功だ"と言って天下を彼に譲った。
* 平:水、土を治める。水土が治められて万物が成り立つようになったことを言う。
* 六府:水、火、金、木、土、穀なのにここで財物が出ると言って府と言う。
* 三事:正德、利用、厚生の三種。
禹王は夏国を建てて王位を息子である'ギェ'に讓ったのに、ここをきっかけで息子である'ギェ'は夏王朝を世襲の王朝体制で変えた。以後夏王朝はずっとつながれてから夏王朝〔BC2183~BC1752〕の桀王に至って暴政を伸ばしたから湯が夏王朝を滅びた。
禹に継承された天下は太平聖代を成ったが流れによってしだいに慾心はふえていって道德は縮んで夏王朝の17代である桀王に至ってメフィという絶世美女にはまって暴政を事としたから湯王が名宰相である伊尹の助けで桀王を滅びて崩れた王道をまた建てた。
『史略』によれば"殷王成湯の姓は子氏で、名前は履(イ)だ。その先祖は挈(ソル)と言う人なのに、帝嚳の息子だ。湯は初めに'バック'と言う地に都邑を決まって人を送って伊尹を莘(シン)の地から招いて幣帛を持って彼を桀(ゴル)に五回も進むようにしたが一回も起用しなかった。桀は貪慾して暴悪して国が大きく崩壞されたので伊尹は湯の宰相になって湯を助けて桀を討伐して南巢で追放したら諸侯たちが湯を高めて王にした"と言った。
湯王が崩れた道(ド)をま立てたがこれも歲月の流れによってしだいに人間の慾心に便乗して道理を失って行ったら殷王朝の30代である紂王に至ると紂王は絶世美人であるダルギにおぼれて池をほってお酒を注いておいて船を浮かべて遊び步きながら飮んで林に肉をかけておいて食べたと言う〔酒池肉林〕。そして民たちに稅金を過重にさせたら民たちの怨声が全国にいっぱい滿ちたと言う。
ここに忠臣が進んで諫言すれば火に燒かれた銅柱の上を步くようにして炭火の上に落ちて死ぬようにする炮烙之刑を行ったら諸侯たちがすべて半旗を起こった。
すると文王の息子である武王が牧野のけんかで殷国の紂王を滅亡させて周王朝を建てて追尊して文王にした。
文王は周王朝の基礎を築いた聖君で姓は姬、名前は昌だ。文王は聖德があって諸侯たちがすべて彼に帰復したら天下の3分の2に達する地を占めた。
文王は姜太公に会って彼の助けを受けて德治に力をつくして周易を出して霊台を作って、神明を地に封じで地尊時代を開いた。
湯王(BC1783~BC1754)が桀王を滅びて殷王朝を建てて崩れた王道をまた建てた時が禹王から422年の以後の仕事だった。
そしてまた湯によって建てた殷王朝は紂王に至って暴政を事として民が疲弊して民心が去ったから周国の文王(BC1099~BC1050)が殷を滅亡させて周国を建てたら湯王から684年の以後の仕事だ。
禹王から湯王までが1会期(513年)にあたって湯王から文王までが1会期(513年)にあたるので1会期に聖人が下って崩れた道(ド)をまた立てたのだ。
この時は堯•舜•禹王の時代に広く開かれた道德政治はしだいに崩れて、ますます人間の慾望と墮落の樣相が現われている時期なことだ。このように興亡盛衰を繰り返えして道(ド)はしだいに弱くなていた。
4。覇時代(BC 770~AD 280):先勢後義曰覇
先に勢力を争って勝利の後に正義を立てた覇者時代だ。道德政治より力の政治が行われる時期だ。英雄たちが登場して覇勧を争う時代で謀士たちの勧謀術数が橫行して各種の兵法が出た時期だ。
周王朝が成立された後13代に来て平王は絹戎族の侵入を避けて首都を洛陽へ移すこととして東周時代(BC770~BC221)が開かれるようになる。
この東周時代はまた春秋時代と戦国時代で分けられる。
春秋時代に入らながら周国の王室の勢力がますます弱くなって王としての威力が消えて代わりに强力な諸侯たちが各所でお互いに覇勧を争うようになる。このなかに覇勧を取った諸侯を春秋五覇と言ったのにこの五覇は齊国の桓公、晉国の文公、楚国の莊王、吳国の王である闔閭、越国の王である勾践を示すのに、一方秦国の穆公、宋国の襄公や吳国の王である夫差などを指折る場合もある。
しかしBC453年傾には五覇の中で一番强力した晉が韓、魏、趙で分けられながら戦国時代が開かれた。春秋時代にはそれさえも力が弱い周国の王室を尊重する観念があったが戦国時代に入るとこのような観念は消えてただ力と力が対決する弱肉强食の樣相が開かれた。
その結果天下はまた七雄で割據したのに、戦国時代の七雄は韓、魏、趙と楚、秦、燕、齊など七つの国家だった。この中に秦国を除外しておよそ2百年間を戦争が続いて六国は国力が衰えた。これを秦国が順に滅亡させて、BC221年に齊国の最後の降伏を受け出して秦の始皇帝が中国の最初の統一国家を立てた。
この時期に孔子(BC552~BC479)が登場して堯•舜•禹•湯•文の時代の王道政治を具現しようと轍環天下をしたが誰も受け入れないで晩年に故鄕に帰って弟子たちの敎育に力をつくして儒敎の開祖になった。
またこの時期には孔子の弟子たちに成り立った儒家を含めて韓非子の法家、墨家、道家など多くの門派が出て思想的な論争と混乱が加重されたので秦始皇は焚書坑儒を断行するようになった。そして数千年間をつながれて下った多くの文献と伝統はすべて燃やされてしまって埋められて王道の脈は切れてしまった。
統一の大業を成った秦始皇はおのずから黃帝だと称して万里長城を築造して阿房宮と廬山陵の工事などをして過重な勞力動員をして、重い稅金を賦課した。
その結果始皇帝が死んだ翌年であるBC209年に遂に陳勝、吳広が反乱を起こしてこの反乱を信号で世の中はまた覇勧の争いに入って行くようになった。
そして終局に漢高祖である劉邦と楚覇王である項羽の楚漢戦が起きたのに漢高祖である劉邦が項羽を擊退して漢国を立てだ。
しかし漢国の14代平帝の時に至って宦官と皇后を含めた皇帝の外戚たちの勧力闘争は極に達して平帝が外戚である王莽によって殺害された。外戚である王莽は漢国の王勧を簒奪して'新'と言う国を立てたが制度改革に失敗して15年さえに光武帝劉秀によって後漢(25∼220)が立てられた。
光武帝は二十八将を含めた善良な臣下が多くて政治は安定して行って 民はその時だけ平安を取りもとしたが後漢の後期に立ち入りながらまた外戚と宦官たちの跋扈で政治は紊乱して世の中は乱れていられた。
すると全国で'黃巾賊の乱'が起きて後漢の王朝はどうこともできない崩れて行き始めて、群雄が割據して天下は三分になって魏(220~265)、蜀(221~263)、吳(222~280)の三国が定立された。
以後三国は熾烈な覇勧の争いの終わりに司馬炎が280年に吳国を最後に滅亡させて三国を統一した。こういうわけて食べて食われる長い覇勧の争いは終止符を取るようになった。
5。夷狄時代(280~1911):王知不倒曰夷狄
各国の王たちがお互いに和合することができずに大きく争った時代でお互いに他の国をえびすと見なした時代。
中国は周邊の民族を大きく四つで分けて東夷•西戎•南蠻•北狄と言った。しかしえびすと呼ばれた民族も勢力を得れば他の民族をえびすと見なした。
280年に建立された西晉が滅びて、317年に司馬睿が中原と地方の土着豪族の推戴を受けて東晉を立てられた。この東晉王朝と時を共にして中国の北部には匈奴、鮮卑、乫、楮、羌など五つの異民族が約130年間に中国の北部に16個の王朝を立てたのにこれを5胡16国と言う。これらの中に鮮卑族の出身の拓跋氏が439年に北部を統一して南部は宋の劉裕が統一することとして南北朝時代が開かれた。
以後隋国の文帝が北の豪族たちを擊退して南の方へ下って5胡16国の中に南朝の最後の陳王朝を滅亡させて統一天下を成った。しかし隋国はやっと3代39年ぶりに滅びて唐国が建立された。
唐国は618年に李淵が隋国を滅びて立てた国として李淵の息子である唐太宗李世民が24将の助けで天下を統一した。
しかし唐は建国してから20代290年になる907年に後梁に滅亡した。
唐が滅びたと中国大陸はまた分裂されて5代10国の時代が約半世紀間を存続してから以後宋国の太祖である趙匡胤によって統一された。
その後12世紀の初葉に女真族が立てた金国は遼国を滅亡させた餘勢を 追って北部中国へ攻め寄せて1127年に宋国の首都である開封を陷落して、宋国の高宗が江南へ避難して臨安(今の杭州)に都邑を決めて南宋と言った。しかし北部モンゴルで起きたジングギズカンが金国などを滅亡させてその餘勢を追って南宋を侵入して結局宋は滅びてモンゴル族による元国が立てるようになった。
しかし元国はわずか90年ぶりに滅びて朱元璋が1368年に明国を立てて南京に都邑を決めた。以後神宗である万曆帝が卽位してから東北の女真族ヌルハチがその勢力を拡張したら明国は17代崇禎帝に至って結局北京が陷落されて明国は17代227年ぶりに滅亡した。そして女真族によて淸国が立てられた。
淸国も末期に至って国內的には白蓮敎徒の乱と太平天国の乱が起きて、国外的には阿片戦争と1856年エロウ号事件を経りながら西歐列强の攻擊を受けて首都である北京が陷落されて淸国はおのずから沈沒した。そして1911年に辛亥革命が起きると淸国は最後の皇帝である溥儀を最後に滅亡した。
6。禽獣時代(1911~現在):不知綱常曰禽獣
人間の根本を失って三綱五倫と日常の道理が分からない禽獣たちの人間の皮の時代。
中国の中原は三国統一の以来で長い歲月の間を外部のえびすと呼ばれる勢力たちによって奪って奪われる攻防戦を経て来た。このような渦中に人間性の墮落は極度に至って結局すべての伝統と文明までも喪失されてただ本能的な慾心と野慾だけで一貫する禽獣のような心で墮落されて行った。
これは邵康節が三国を背景で歷史の流れを把握したが結局このような樣相は全世界のどこを見ても同じい姿をしている。
物質文明が先に西洋の勢力たちは力の優位を立てて全世界を武力で征服して人間としてはまさか行うことができない人身売買まで躊躇しなかった。また東洋だと例外ではない状況が起っていたから勧力を握った爲政者の階級たちは力がない民たちの膏血を取って自分たちのお腹を滿たすのに汲汲としていた。
まさに人倫道德が消えた禽獣の世の中で変わって全人類は消滅地境に落ちこむようになったのだ。
このような全般的な状況を邵康節はまるであらがじめ見てもしたように六度数で明白にしておいたのだ。
この內容は「採芝歌」の'春山年寄りの話'にも次のようにそのまま出ている。
天皇地皇開闢後に人皇時代いつなのか
盤古人が過ごした後に三皇時代この時だ。
三皇時代過ぎ去って五帝乾坤いつの時なのか
五帝乾坤過ぎ去って王覇時代になったな。
王覇時代過ぎ去って夷狄禽獣運数だ。
夷狄時代過ぎ去って禽獣運がこの時だ。
開闢以後なにの万年後禽獣時代あったな。
ただいま禽獣時代をあった世の中を誰かが取らなければ消滅する地境に置かれるようになった。
しかしどうした仕事やらそれほど猛った西洋勢力はしおれてしだいに退いて、封建帝国主義は消えて民主主義と社会主義が位置を取った。そしていよいよ世界が一つになって行くのだ。
するとこんなに世の中が回っているところには確かにどんな見えない新しい力が作用したはずだ。
そのどんな見えない新しい力の作用ではなくてはこのような現状は不可能だろう。
このような新しい力の本体がすなわち消滅地境に処した人類を救済して先天の不祥事を改めて後天の新しい道(ド)を立てて地上仙境を建設しようと降臨した姜甑山聖師の天地開闢公事なのだ。
姜甑山聖師は以前に"先天には人間と事物がすべて相克に支配されて世の中に怨みが積もる思って三界を滿たしたので天地が常道を失ってさまざまの災禍が起きて世の中は残酷だようになった。だから私が天地度数を整理して神明を調和して万古に積もった怨みをほぐして、相生の道(ド)を立てて天も改めて地も改めて新しい天と新しい地を開闢して、神明にとって人の心の中に出入りするようにしてその体質と性格を直して人間を新しく改造して後天の五万年の無窮な仙境を立てて世界民生を引き上げようと思う"と宣布した。これがすなわち宣道だ。
そして姜甑山聖師から宗統を受け維いだ道主趙鼎山は姜甑山聖師を'九天応元雷声普化天尊姜聖上帝(グチォンウングワンヌェソングボフャチォンゾンガングソングサングゼ)'で神位を仕えたこととして姜甑山聖師が人類の信仰の対象である三神の中の一人で降臨したことを明白にした。
道主趙鼎山は姜甑山聖師の宣道した天地公事によって後天の五万年の道法を創道した。
そして都典朴牛堂が道主趙鼎山から天賦の宗統を受け維いで、道主趙鼎山を'趙聖玉皇上帝(ゾソングオックフャングサングゼ)'で神位を仕えたこととして道主もやぱっり三神の中の一人なことが明白にされた。
都典朴牛堂は九天上帝が宣道して、玉皇上帝が創道した道(ド)を天下に開いて与えたからこれが開道だ。
そして都典朴牛堂から宗統を受け維いだ大頭目は都典朴牛堂の神位を'朴聖弥勒世尊(バックソングミルックセゾン)'で明白にして仕えたからこういうわけで消滅地境に処した天下蒼生を救援しに人世に降臨した三神がすべた明白にされた。
だから大頭目は九天上帝が宣道して、玉皇上帝が創道して、弥勒世尊が開道した道(ド)を天下に広げて地上仙境を建設する1万2千の道通君子を搜して成道するようにするのだ。
道通君子と言うのははるかな昔の太古的に禽獣と違うところがいなかった人間に神を敎えて福の根源が分かるようにして、士農工商を敎えて生活を潤沢にさせてして、人文を立てて人事道理を確立させて太平聖代を謳歌するようにした三皇五帝のような人々を言う。
道(ド)には德がある。だから人間の世の中に道(ド)を立てれば人類の生活が豊かで、豊かになるのだ。
今人類はただ格が違うだけ太初のような禽獣時代にあたっている。だから無道して消滅するようになった人類に三神の真法を広げて立てて救済しなければならない時なことだ。
今日のような世の中に道通君子が出なかったら人類は慾心と闘争とあらゆる災殃で消滅してしまったはずだ。だからただいまは1万2千道通君子が出なければならない時なことだ。
1万2千の道通君子が成道することとしてこの地上には仙境の世の中が建設されて、地上に神仙が実現されて万国が和平して猜忌と嫉妬、戦争が切れた道化樂園が成ることだ。
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